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お疲れ様でした【宮崎駿監督『公式引退の辞』全文】

2013.09.06 23:55

category : その他ニュース関連

宮崎駿監督【公式引退の辞】全文

 数々のヒット作を生み出し、大ヒット上映中の『風立ちぬ』をもって引退することを発表した宮崎駿監督が6日、都内で記者会見を開いた。会見開始に先立ち、報道陣に向けて宮崎監督の「公式引退の辞」が公開された。以下、全文掲載。

「公式引退の辞」
宮崎駿

 ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。

 もっと短くなるかもしれませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。

 ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作って来た人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。

 “風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果されてしまいます。

 長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。

 これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑のかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。

 それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。

 ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。

 ありがとうございました。

以上
2013,9,4


http://www.oricon.co.jp/news/movie/2028392/full/
【ORICON STYLE より引用】


 んな人であれ、年齢には勝てない。

 過去に何度か“引退宣言”をしてきてはいたけれども、今回ばかりは本気だろうね。


 制作への情熱はまだ持っていても、それにかかる時間が自分でも長く感じる様になってしまっては、趣味でやっているのであればまだしも、仕事では“老害扱い”をされかねない。

 監督は、そういうのが嫌なんだと思う。

 自分以外の人間も仕事で飯を食っていく以上、迷惑はかけられない。

 だから、第一線からは身を引き、仕事の枠から“自由”になって、やりたい様に制作をやっていきたいんだなぁって。

 …戻る“自由”も、ひょっとしたらあるかもしれんが。


 正直、個人的には最近のジブリは印象が残る度合いが薄い。
 興行収入は良くても、面白さは比例してなかった。

 絵はいいんだけど、なんか違うんだよね。

 「となりのトトロ」や「天空の城ラピュタ」の様な感じのファンタジーさが足りないというか、ぶっ飛び感がないというか、何というか…あの頃とは異なる作品なんだよな。

 今やってる「風立ちぬ」も、観たいとも思わない。

 あれを最後に長編作品から引退するくらいなら、あの頃の様な作品に“原点回帰”してほしかった。


 まぁ、そうは言っても、いい作品を数多く残してきたのは事実。

 お疲れ様でした。



 あったかくして寝ろよ~。


ランクリ、お願いしますm(_ _)m
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※[READ MORE...]では、「引退会見」の全文を引用しておきました。



宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし

●当然まただろうと思われているんですけど、今回は本気です
9月6日、スタジオジブリは都内で宮崎駿監督の引退会見を行った。会見には宮崎駿監督のほか、鈴木敏夫プロデューサー、星野康二社長が出席し、約1時間半にわたって記者からの質問に応じた。当日は国内外から約600名の記者、70台のテレビカメラが集まるなど、注目度の高さを伺わせる会見となった。

今回の会見は、9月1日(現地時間)にヴェネチア国際映画祭で発表された宮崎監督引退の発表を受けて開催されたもの。『風立ちぬ』を最後に長編アニメーション制作から引退するという突然の発表に、日本はもちろん世界中から驚きの声が上がっていた。

宮崎監督はなぜ引退を決意したのか。引退後はどのような活動をしていくのか。当日語られた内容を、ここに全文書き起こすことにする。

宮崎監督:公式引退の辞ということで、公式とまでしなくていいと思ったんですが、メモを皆さんにお渡ししているので、質問をいただければ何でも答えるという形でごあいさつにしたいと思うのですが、一言。僕は何度も今まで辞めると言って騒ぎを起こしてきた人間なので、当然まただろうと思われているんですけど、今回は本気です。

――(笑)

鈴木プロデューサー:お集まりいただきましてありがとうございます。始まったものは必ず終わりがくるということだと思います。僕の立場で言うと、落ちぶれて引退をするというのはかっこ悪いと思っていまして、ちょうど『風立ちぬ』という映画を公開して、色々な方に支持されている時に決めた。そういうことで言うと良かったんじゃないかなと思っています。今後ジブリはどうなっていくんだろうと、当然、疑問を持たれると思います。11月23日公開の高畑勲監督の『かぐや姫の物語』。これは皆さんにご心配をかけましたけど、鋭意製作中。11月23日、必ず公開するということをお伝えしたいと思います。これはまだ企画その他は発表できないんですが、来年の夏を目指してもう一本映画を製作中であります。

――監督から子供たちへ伝えたいことはありますか?

宮崎監督:そんなにかっこいいことは言えません。何か機会があったら、私たちが作ってきた映画を見てくだされば何か伝わるかもしれません。それに留めさせてください。

――長編アニメーションの監督を辞めるということでいいのでしょうか? これからやっていきたいことを具体的に教えてください。

宮崎監督:我ながらよく(引退の辞を)書いたなと思ったのですが、「僕は自由です」と書いたので、やらない自由もあると。ただ車が運転できる限りは、毎日アトリエに行こうと。それでやりたくなったものや、やりたいものはやろうと思っています。まだ休息をとらなければならない時期なので、休んでいるうちに色々わかってくるだろうと思いますが、ここで約束するとたぶん破ることになると思うので、そういうことでご理解いただければ(笑)。

●鈴木プロデューサー「少しほっとするみたいなところがあった」
――1984年に公開された『風の谷のナウシカ』の続編はこの先作る予定、作りたいというお考えは?

宮崎監督:それはありません。

――(韓国記者)韓国にも宮崎監督のファンがいっぱいいます。ファンに一言お願いします。また、今話題になっているゼロ戦についての問題についてどう思っていますか?

宮崎監督:映画を見ていただければわかると思っているのですが、いろんな言葉にだまされないで、今度の映画も見ていただけたらいいなと思います。色々な国の方々が私たちの作品を見てくださっていることは非常にうれしく思っています。同時に作品のモチーフそのものが、国の軍国主義が破滅に向かっている時代を舞台にしていますので、色々な疑問が私の家族からも、自分自身からも、スタッフからも出ました。それにどういうふうに答えるかということで映画を作りました。ですから映画を観ていただければわかると思います。映画を観ないで論じてもはじまらないと思いますので、ぜひお金を払って観ていただけるとうれしいです(笑)。

――今後ジブリの若手監督の監修やアイディアを提供したり、脚本を書いたり、関与するお考えは?

宮崎監督:ありません。

――「今回は本気です」ということですが、今までとは何が違うのでしょうか。

宮崎監督:『風立ちぬ』は『ポニョ』から5年かかっています。その間映画を作り続けたわけじゃなくて、シナリオを書いたり自分の道楽の漫画を書いたり、美術館の短編をやるとか色々なことをやっていますが、やはり5年かかるんです。今、次の作品を考え始めますと、たぶん5年ではすまないでしょうね。この年齢ですから。すると次は6年かかるか、7年かかるか。あと3カ月もすれば私は73歳になりますから、それから7年かかると80歳になってしまう。この前、文藝春秋の元編集長だった半藤一利さんという方とお話ししました、その方は83歳でしたが、背筋が伸びて頭もはっきりしてて本当にいい先輩です。僕も83歳になってこうなれたらいいなと思います。あと10年は仕事を続けますと言っているだけで、続けられたらいいなと思いますが、今までの延長の部分には自分の仕事はないだろうと。そういうわけで、僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わったんだと、もし自分がやりたいと思っても、それは年寄りの世迷い事であるということで片づけようと決めています。

――引退を鈴木さんと正式に決めたタイミングは?

宮崎監督:よく覚えてないんですけど。もうダメだって言った途端に鈴木さんが「そうですか」と。何度もやってきたことなんで、その時鈴木さんが信用したかどうかはわかりませんが、ジブリを立ち上げた時に、こんなに長く続ける気がなかったことは確かです。何度ももう引き時ではないのか、やめようという話は2人でやってきましたので、今回は本当に「次は7年かかるかもしれない」ということに、鈴木さんもリアリティを感じたんだと思います。

鈴木プロデューサー:正確に覚えているわけではありませんが、『風立ちぬ』の初号(試写)があったのが6月19日。その直後だったと思います。宮さんの方からそういうお話があった時、確かにこれまでの色々な作品で「これが最後だ、これが最後だと思ってやっている」そういうお話が色々ありました。具体的には忘れましたが、今回は本気だなと僕も感じざるを得ませんでした。というのも、僕自身が『ナウシカ』から数えると今年がちょうど30年目にあたり、ジブリを続けていく間で色々ありました。これ以上やるのはよくないのではないか、やめようかやめまいか、など色々な話がありました。僕もこれまでの30年間、ずっと緊張の糸があったと思います。宮さんにそのことを言われた時、緊張の糸が少し揺れたんですよね。変な言い方ですが、僕自身少しほっとするみたいなところがあったんですよ。

だから僕はね、若い時だったら留めさせようとかいろんな気持ちが働いたと思いますが、自分の気持ちの中で、括弧つきなんですけど「ご苦労様でした」っていう気分があった。そういうこともある気がするんです。ただ僕自身は、何しろ引き続いて『かぐや姫の物語』を公開しなければならないので、途切れかかった糸をもう一回しばって仕事をしている最中です。それを皆さんにこうやってお伝えする前に、いつ、どうやって、それ(引退発表)をするのかを話し合いました。その中で、皆さんの前にまず言わなければ(いけないのは)、やはりスタジオで働くスタッフだったんですよ。それをいつ伝えるのか。ちょうど『風立ちぬ』の公開がありましたから、映画の公開前に、映画ができてすぐ引退なんて発表したら話がややこしくなると思いました。だから映画を公開して落ち着いた時期、社内では8月5日にみんな(スタッフ)へ伝えることにしました。映画の公開が一段落した時期、皆さんにも発表できるかなと。色々考えたんですけど、時期としては9月頭です。そんなふうに考えたことは確かです。

――(台湾記者)台湾の観光客は、日本に旅行すると「ジブリ美術館」は外せない観光名所になっています。台湾のファンから監督の引退を残念がる声がいっぱいあります。引退後は時間がたっぷりあるので、海外への旅行も兼ねてファンと交流する予定はありますか。

宮崎監督:「ジブリの美術館」の展示については私は関わらせてもらいたいと思っています。ボランティアでという形になるかもしれません。自分が展示品になってしまうかもしれませんが(笑)、ぜひ美術館にお越しいただけるとうれしいです。

●宮崎監督「一番自分の中に刺のように残っているのは『ハウルの動く城』」
――鈴木さんは『風立ちぬ』を進めた段階で最後になることを予感するようなことはありましたか? 宮崎監督はこの映画を最後にすることに関して、引き際に関する美学などありますか。

鈴木プロデューサー:僕は宮さんと付き合ってきて、彼の性格からしてひとつ思っていたことは、ずっと作り続けるんじゃないかなと思ってきました。どういうことかと言うと、死んでしまうまで、間際まで作り続けるんじゃないかと。すべてをやることは不可能かもしれないけど、何らかの形で映画を作り続けるという予感の一方で、35年付き合ってきて常々感じてたんですけど宮さんという人は、別のことをやろうと自分で一旦決めて、それをみんなに宣言するという人なんです。もしかしたらこれを最後に、それを宣言して別のことにとりかかる、そのどっちかだろうと。『風立ちぬ』という作品を作って完成を迎え、その直後にさっき言ったような話が出ましたが、僕の予想の中に入ってましたので、素直に受け止めることができたというか。たぶんそういうことだと思います。

宮崎監督:映画を作るのに死に物狂いで、その後どうするかは考えていませんでした。それよりも映画はできるのか、これは映画になるのか、作るに値するものなのか、ということの方が自分にとって重圧でした。

――(ロシア記者)「以前のインタビューではいろんな外国のアニメーション作家から影響を受けたということを教えていただきました。その影響を与えた方は、ロシアのノルシュテイン監督も入っていると思いますので、そのあたりを詳しく教えてください。

宮崎監督:ノルシュテイン監督にどういう影響を受けたかという話だと思いますが、ノルシュテインは友人です。負けてたまるかという相手でして……それほどでもありませんが(笑)。彼はずっと外套を作っていますね。ああいう生き方も一つの生き方だと思います。実は今日ここに高畑監督監督も一緒に出ないかと誘ったんですけど、「冗談ではない」という顔で断られまして。彼はずっとやる気だなと思っています(笑)。

――最も思い入れのある作品は? すべての作品を通してこういうメッセージを入れようと意識していたことはありますか?

宮崎監督:うーん……一番自分の中にトゲのように残っているのは『ハウルの動く城』です。ゲームの世界なんです。でもそれをゲームではなくドラマにしようとした結果、本当に格闘しました。スタートが間違っていたんだと思うんですが(笑)。自分が立てた企画だから仕方ありません。僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入った人間ですので、今は児童書もいろいろありますが、基本的に子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが、自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません。

――(イタリア記者)イタリアを舞台にした作品を色々作っていますが、イタリアは好きですか? あとこれは感想ですが、日野原先生などを目標にされるのはどうでしょう。あと20年30年生きられるのでいいと思います。(ジブリ美術館で)館長として働かれると訪問者は喜ぶと思います。

宮崎監督:僕はイタリアは好きです。まとまってないことも含めて好きです。友人もいるし、食べ物はおいしいし、女性は綺麗だし、でもちょっとおっかないかなという気もしますが、イタリアは好きです。半藤さんのところに10年いけば辿り着くのか、その間に仕事を続けられたらいいなと思っているだけで、それ以上望むのは半藤さんがあと何年がんばってくださるかわかりません。半藤さんは、僕より10年前を歩いてるんで、ずっと歩いていてほしいと思います。館長になって入り口で「いらっしゃいませ」と言うよりは、展示のものがもう10年以上前に書いたものなんで、随分色あせていたり書きなおさなければいけないものがありまして、それをやりたいと思っています。これは本当に自分が筆で書いたり、ペンで書いたりしなければいけないものなんで、それはぜひ時間ができたらやりたい、ずっとやらなければいけないと思ってきたことです。

美術館の展示品というのは毎日掃除してきちんとしてたはずなのにいつの間にか色あせてくる。部屋に入った時に全体がくすんで見えるんです。くすんで見えるところを一箇所何かキラキラさせると、そのコーナーがパッと蘇って、不思議なことに、たちまちそこに子どもたちが群がるというのがわかったんです。美術館みたいなものを生き生きさせていくには、ずっと手をかけ続けなければならないことは確かなので、できるだけやりたいと思っています。

――美術館では短編アニメも監督されていますが、これも展示の一環と考えると、短編アニメにもこれから関わるのでしょうか? もともとスタジオジブリは宮崎監督と高畑監督の作品を作るために立ち上げた会社だと思うんですが、高畑さんも今度の作品が自分の最後にして最高傑作になるかもしれないと言っています。宮崎さんと高畑さんが一線を退くことになると、ジブリの今後はどうなるのでしょうか。

宮崎監督:引退の辞に書きましたように僕は自由です。やってもやらなくても自由なので、今そちらに頭を使うことはしません。前からやりたかったことがありますから、そちらをやろうと思います。とりあえず、それはアニメーションではありません。

鈴木プロデューサー:僕は現在、『かぐや姫の物語』の後、来年の企画に関わってます。僕も宮さんよりけっこう若いんですが65歳なんです。この爺がいったいどこまで関わるかという問題があると思うんですが、今後のジブリの問題というのは、今ジブリにいる人たちの問題でもあると思うんです。その人たちがどう考えるのか、そのことによって決まると僕は思っています。

宮崎監督:ジブリの今後については、やっと上の重しがなくなるんだから、「こういうものをやらせろ」という声が若いスタッフから鈴木さんに届くことを願っています。それがないと何やってもダメです。それです。僕らは30歳の時にも40歳の時にも、やっていいんだったら何でもやるぞという覚悟でいろんな企画を抱えていましたけど、それを持っているかどうかにかかっていると思います。鈴木さんは、それを門前払いする人ではありません。ということで今後のことは、色々な人間の意欲や希望や能力にかかっていると思います。

●ジャパニメーションというのがどこにあるのかはわからない
――他にこれはやってみたかったなという長編作品、やらずに終わってしまった企画があれば。

宮崎監督:それは山ほどあるんですが、やってはいけない理由があったからやらなかったことなんで、ここで述べようもない。それほどの形にはなってないものばかりです。やめると言いながらこういうのはやったらどうだろうとか、そういうことはしょっちゅう頭に出たり入ったりしますけど、それは人に語るものではありませんので、ご勘弁ください。

――具体的に今後どんなことをやりたいのでしょう。日本から海外にいろんなことを発信されたが、今後違う形で発信する予定はありますか?

宮崎監督:やりたいことがあるんですが、やれなかったらみっともないから何だかは言いません(笑)。僕は文化人になりたくないんです。僕は町工場のオヤジでして、それは貫きたいと思っています。だから発信しようとかあまりそういうことは考えない。文化人ではありません。

――当面は休息を優先するということでしょうか? 『風立ちぬ』ですが、東日本大震災や原発事故に関しての発言をしているが、震災や原発事故で感じたことが最新作に影響は?

宮崎監督:『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故に影響されていません。この映画を始めるときに初めからあったものです。時代に追いつかれて追いぬかれたという感じを映画を作りながら思いました。それから僕の休息は他人から見ると休息に見えないような休息でして、仕事を好き勝手なことをやってるとそれが休息になることも随分あるので、ただゴロっと寝転がってるとかえってくたびれるだけなんで、夢としてはできないと思いますけど、東山道を歩いて京都まで歩けたらいいなと思ってますけど、途中で行き倒れになる可能性のほうが強い(笑)。それはときどき夢見ますけど、多分実現不可能だと思います。

――今のお答えですが、時代に追いつかれ追いぬかれたということが今回の引退と関係ある?

宮崎監督:関係ありません。アニメーションの監督が何をやってるかは皆さんよくわからないことだと思うんですが、アニメーションの監督といってもそれぞれやり方が違います。僕はアニメ映画出身なもので描かなきゃいけないんです。描かなきゃ表現できないので、そうするとどういうことが起こるかというと、メガネを外してですね、こうやって描かないといけないんです。これを延々とやってかないといけないんです。どんなに体調を整えて節制しても、集中していく時間が年々減っていくことは確実なんです。実感しています。『ポニョ』のときに比べると僕は机を離れる時間が30分早くなっています。この次はさらに1時間早くなるんだろうと。その物理的な加齢によって発生する問題はどうすることもできませんし、それで苛立ってもしかたがないんです。では違うやり方をすればいいじゃないかという意見があると思いますが、それができるならとっくにやってますからできません。ということで僕は僕のやり方で自分の一代を貫くしかないと思いますので、長編アニメーションは無理だという判断をしたんです。

――クールジャパンと呼ばれる世界をどう見ていますか。

宮崎監督:本当に申し訳ないんですが、私が仕事をやるということは一切映画もテレビも見ないという生活をすることです。ラジオだけ朝ちょっと聞きます。新聞はパラパラっと見ますが、あとはまったく見ていません。驚くほど見ていないんです。ですからジャパニメーションというのがどこにあるのかはわかりません。本当にわからないんです。予断で話すわけにもいきませんから、それに対する発言権は僕にはないと思います。皆さんも私の年齢になって私と同じデスクワークをやってたらわかると思いますが、そういう気を散らすことは一切できないんです。参考試写という形でスタジオの映写室で何本か映画をやってくださるんですが、たいてい途中で出てきます。仕事をやったほうがいいと(笑)。そんな人間なんで、今が潮だなと思います。

――監督の中には引退宣言をせずに退かれる方もいますが、あえて引退宣言という形で公表しようと思った最大の理由は?

宮崎監督:引退宣言をしようと思ったんじゃないんです。僕はスタッフにもうやめますと言いました。その結果、プロデューサーの方からいろんなそれに関しての取材の申し入れがあるけどどうするか。いちいち受けてたら大変ですよという話がありまして、じゃあ僕のアトリエでやりましょうかという申し入れをしたらちょっと人数が多くて入りきらないという話になりまして、じゃあスタジオでやりましょうかといったらそこもどうも難しいという話になりまして、それでここになっちゃったんです。そうするとですね、これはなにかないと、口先だけでごまかすわけにはいかないので、公式に引退の辞を書いたんです。それをプロデューサーに見せたらこれいいじゃないっていうんで、こんなことになりました。こんなイベントをやる気はさらさらなかったんです(笑)。ご理解ください。

――鈴木さんから見た宮崎映画のスタイルを改めて。また宮崎映画が日本の映画会に及ぼした影響について評価・解説をお願いします。

鈴木プロデューサー:言い訳かもしれないけど、そういうことをあまり考えないようにしてるんです。どうしてかというと、そういう風にものを見ていくと目の前の仕事ができなくなるんですよ。僕は現実には宮崎駿作品に関わったのは『ナウシカ』からなんですが、そこから約30年間ずっと走り続けてきて、それと同時に過去の作品を振り返ったことはなかったんです。それが多分仕事を現役で続けるってことだと思ってたんです。どういうスタイルでその映画を作っているのか、感想として思うことはありますけど、なるたけそういうことは封じる。なおかつ自分たちが関わって作ってきた作品が世間にどういう影響を与えたのか、それも僕は考えないようにしてきました。そういうことです。

宮崎監督:まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点にたどり着いたって聞いたらよかったでだいたい終わりです。

●監督になってよかったと思ったことは一度もありません、アニメーターは何度かある
――(フランス記者)フランスはいかがでしょうか。

宮崎監督:正直に言いますね。イタリア料理のほうが口に合います(笑)。クリスマスにたまたまフランスに用事があって行ったときに、どこのレストランに入ってもフォアグラが出てくるんです。これが辛かったなって記憶があります(笑)。それが答えになっていません? あ、ルーブルはよかったですよ。いいところはいっぱいあります。ありますけど、料理はイタリアのほうが好きでした。あの、そんな大した問題と思わないでください(笑)。フランスの友人にイタリアの飛行艇じゃなくてフランスの飛行艇の映画を作れって言われたんですけど、いやーアドリア海に沈んでいったからフランスの飛行艇はないだろうという話をした記憶はありますけど。フランスがポール・グリモーっていう、『王と鳥』っていう名前になってますが、昔は『やぶにらみの暴君』っていう形で、反戦映画じゃなかったけど、1950年代に公開されて甚大な影響を与えたんです。特に僕よりも5つ上の高畑監督の世代には圧倒的な影響を与えたんです。僕はそれは少しも忘れていません。今見ても志とか世界の作り方を見ても本当に感動します。いくつかの作品がきっかけになって自分はアニメーターをやっていこうと決めたわけですが、そのときにフランスで作られた映画のほうがはるかに大きな影響を与えてます。イタリアで作られた作品もあるんですが、それを見てアニメーションをやろうと思ったわけではありません。

――1963年に東映動画に入社されてちょうど半世紀。振り返って一番辛かったこと、アニメを作って一番よかったと思うことは。

宮崎監督:辛かったのはスケジュールで、どの作品も辛かったです。終わりまでわかっている作品は作ったことがないんです。つまりこうやって映画が収まっていくというか、見通しがないまま入る作品ばっかりだったので、それは毎回ものすごく辛かったです。最後まで見通せる作品は僕はやらなくてもいいと勝手に思い込んで、企画を立てたりシナリオを書いたりしました。絵コンテという作業があるんですが、月刊誌みたいな感じで絵コンテを出す。スタッフはこの映画がどこにたどり着くのかぜんぜんわからないままやってるんです。よくまぁ我慢してやってたなと思うんですが、そういうことが自分にとっては一番しんどかったことです。でも2年とか1年半とかいう時間の間に考えることが自分にとっては意味がありました。同時に上がってくるカットを見て、ああではないこうではないといじくっていく過程で、前よりも映画の内容についての自分の理解が深まることも事実なんで、それによってその先が考えられるような、あまり生産性には寄与しない方式でやりましたけど、それは辛いんですよね(笑)。とうとうとスタジオにやってくるという日々になってしまうんですが、50年のうちに何年そうだったのかわかりませんが、そういう仕事でした。

監督になってよかったと思ったことは一度もありませんけど、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かあります。アニメーターっていうのはなんでもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、光の差し方がうまくいったとか、そういうことで2、3日は幸せになれるんですよ。短くても2時間くらいは幸せになれるんです。監督は、最後に判決を待たなきゃいけないでしょ。これは胃に良くないんです。ですからアニメーターは最後までやってたつもりでしたけど、アニメーターという職業は自分に合っているいい職業だったと思っています。

――それでも監督をずっとやってこられたのは?

宮崎監督:簡単な理由でして、高畑勲と会社が組ませたんじゃないんです。僕らは労働組合の事務所で出会ってずいぶん長いこと話をしました。その結果、一緒に仕事をやるまでにどれほど話をしたかわからないくらいありとあらゆることについて話をしてきました。最初に組んでやった仕事は、自分がそれなりの力を持って彼と一緒にできたのは『ハイジ』が最初だったと思うんですけど、そのときにまったく打ち合わせが必要ない人間になってたんです。双方に。こういうものをやるって出した途端に、何考えてるかわかるって人間になっちゃったんです。ですから監督というのはスケジュールが遅れると会社に呼び出されて怒られる。高畑勲は始末書をいくらでも書いてましたけど、そういうのを見るにつけ僕は監督はやりたくないと。やる必要がないと。僕は映画の方をやってればいいんだと思ってました。まして音楽や何やら缶やらは修行もしなければ何もやらないという人間でしたから、ある時期がきてお前一人で演出をやれと言われたときは本当に途方に暮れたんです。音楽家と打ち合わせなんて何を打ち合わせしていいかわからない。よろしくって言うしかない。しかもこのストーリーはどうなっていくんですかって、僕もわかりませんって言うしかないんで。

つまり初めから監督や演出をやろうと思った人間じゃなかったんです。それがやったんで、途中高畑監督に助けてもらったこともありましたけど、その戸惑いは『風立ちぬ』までずっと引きずってやってきたと今でも思ってます。音楽の打ち合わせでこれどうですかって聞かされても、どこかで聞いたことあるなとか、それくらいのことしか思いつかない(笑)。逆にこのCDをとても気に入ってるんですけど、これでいきませんかと。"これワグナーじゃないですか"(と言われる)とか、そういうバカな話はいくらでもあるんですけど、本当にそういう意味では映画の演出をやろうと思ってやってきたパクさんの修行とですね、絵を描けばいいんだって思ってた僕の修行はぜんぜん違うものだったんです。それで監督やってる間も僕はアニメーターとしてやりましたので、多くの助けやとんちんかんがいっぱいあったと思うんですけど、それについてはプロデューサーがずいぶん補佐してくれました。つまり、テレビも見ない、映画も見ない人間にとってはどういうタレントがいるのか何も知らないんです。すぐ忘れるんです。そういうチームというか、腐れ縁があったおかげでやってこれたんだと思っています。決然と立って一人で孤高を保っているというそういう監督ではなかったです。わからないものはわからないという、そういう人間として最後までやれたんだと思います。

――『風立ちぬ』について。長編最後の場面のセリフを「あなたきて」から「あなた生きて」に変えたとプロデューサーが以前話されていました。宮崎監督が考えていたものとは違うものになったと思いますが、長編最後の作品として悔いのないものになったのか。また今変えたことについてどう思っていますか。

宮崎監督:風立ちぬの最後については本当に煩悶しましたが、なぜ煩悶したかというと、とにかく絵コンテを上げないと、制作デスクのさんきちという女の子がいるんですが、本当に恐ろしいんです(笑)。他のスタッフと話してると床に"10分にしてください"って貼ってあるとかね。机の中にいろんな叱咤激励が貼ってありまして、そんなことはどうでもいいんですけど(笑)。とにかく絵コンテを形にしないことにどうにもならないので、とにかく形にしようと形にしたのが追い詰められた実態です。それでやっぱりこれはダメだなと思いながらその時間に絵が変えられなくてもセリフは変えられますから、自分で冷静になって仕切り直ししたんです。こんなこと話してもしょうがないんですが、最後の草原はいったいどこなんだろう、これは煉獄であると仮説を立てたんです。ということはカプローニも堀越二郎も亡くなってそこで再会してるんだってそういう風に思ったんです。それから奈緒子はベアトリーチェだ、だから迷わないでこっちに行きなさいって言う役として出てくるんだって、言い始めたら自分でこんがらがりまして、それでやめたんですよね。やめたことによってすっきりしたんです。神曲なんて一生懸命読むからいけないんですよね(笑)。

――自分の作りたい世界観は表現できたのか、達成感はありますか? もし悔いが残っているとしたらどこですか?

宮崎監督:その総括はしていません。自分が手抜きしたという感覚があったら辛いだろうと思うんですけど、とにかくたどり着けるところまではたどり着いたという風にいつでも思ってましたから、終わった後はその映画は見ませんでした。ダメなところはわかってるし、それが直ってることもないので、振り向かないようにやってます。同じことはしないつもりで、ということなんですが。

●失礼ですがタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、そのギャップに愕然
――スタジオジブリ立ち上げが40代半ば。日本社会をどう見てきましたか。どんな70代にしたいですか。

宮崎監督:ジブリを作ったときのいろんなことを思い出すと、浮かれ騒いでた時代だったと思います。経済大国になって日本はすごいんだ、ジャパンイズナンバーワンとかね。そういうことが言われていた時代だったと思います。それについて僕はかなり頭にきていました。頭にきていないと『ナウシカ』なんか作りません。でもその『ナウシカ』、『ラピュタ』、『トトロ』、『魔女の宅急便』っていうのは基本的に経済は勝手に賑やかだけど心の方はどうなんだとかね、そういうことをめぐって作っていたんです。でも1989年にソ連が崩壊して日本のバブルもはじけていきます。その過程で戦争が起こらないと思っていたユーゴスラビアが――僕が勝手に起こらないと思っていただけなんですけど――内戦状態になるとか、歴史が動き始めました。今まで自分たちが作ってきた作品の延長上にこれは作れないという時期がきたんです。そのときに、体をかわすように豚を主人公にしたり、高畑監督はたぬきを主人公にしたりして切り抜けたんです。切り抜けたって言うと変ですけど(笑)。たぶんそうです。それから長い下降期に入ったんです。失われた10年は失われた20年になり、半藤一利さんは失われた45年になるだろうと予言しています。たぶんそうなるんじゃないかと。

そうすると僕らのスタジオというのは、経済が上り調子のこうなっているところでバブルが崩壊する、ここのところで引っかかっていたんです。それがジブリのイメージを作ったんです。その後じたばたしながら『もののけ姫』を作ったりいろいろやってきましたけど、僕の『風立ちぬ』までずるずると下がりながら、これはどこにいくんだろうと思いつつ作った作品だと思います。ただこのずるずるずるが長くなりすぎると、最初に引っかかっていた引っかかりが持ちこたえられなってドロっていく可能性があるところまできてるんじゃないか。抽象的な言い方で申し訳ないんですが、僕の70っていうのは半藤一利さんとお話したときによくわかったんですが、ずるずるずると落ちていくときに自分の友人だけじゃなくて若い一緒にやってきたスタッフや隣の保育園の生きてるところ自分が横にいるわけですから、なるべく背筋を伸ばして半藤さんのようにきちんと生きなければいけないと思ってますけど。そういうことだと思います。

――(中国記者)将来、ジブリの作品を中国で上映する可能性は?

星野社長:御存知の通り、中国は外国映画の制度があってその本数が規制緩和で増えているという状況はよくわかっているんですが、まだまだそういう面では本格的に映画作品、日本の作品を上映していく流れができていないんです。前向きに考えてはいますけど、現時点ではジブリ作品はまだ上映されている状況にはありません。

――宮崎監督が好きな作品や監督などは?

宮崎監督:僕は今の作品をぜんぜん見ていないので、ノルシュテインやピクサーのジョン・ラスターは友人です。それからイギリスにいる連中の友人です。みんなややこしいところでいろいろやっているという意味で友人です。競争相手じゃないといつも思っています。今の映画見てないんです本当に。高畑監督の映画は見ることになると思いますが、まだのぞくのは失礼だからのぞかないようにしています。

――『風立ちぬ』は庵野監督やアルパートさんなど縁の深いキャスティングです。そこに何か思いは?

宮崎監督:その渦中にいる方は気づかないと思います。つまり毎日テレビを見ているとか、日本の映画を見ているとか、吹き替えのものを見ているとか、そういう人たちは気がつかないと思うんです。でも僕は東京と埼玉を往復して暮らしてますけど、さっきも言いましたように映画もテレビも見てないんです。自分の記憶に蘇ってくるのは、特に『風立ちぬ』をやってる間中、蘇ってきたのはモノクロ時代の日本の映画です。昭和30年以前の作品ですね。そこで暗い電気の下で生きるのに大変な思いをしてる若者や男女が出てくる映画ばかり見ていたので、そういう記憶が蘇るんです。それと今の、失礼ですがタレントさんたちのしゃべり方を聞くと、そのギャップに愕然とします。なんという存在感のなさだろうと思います。庵野もアルパートさんも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、そのほうが僕にとって映画にぴったりすると思いました。でも他の人がダメだったとは思わないです。奈緒子をやってくださった人なんかはみるみるうちに本当に奈緒子になってしまって、本当に愕然としました。そういう意味で非常に、この『風立ちぬ』をドルビーサウンドだけどドルビーではないモノにしてしまう。周りから音は出さない。それからガヤは20人も30人も集めてやるんじゃなくて、音響監督は2人でするんだと言ってます。つまり昔の映画はそこで喋っているところにしかマイクは向けられませんから、どんなにいろんな人間が口を動かしてしゃべっていてもそれは映像には出てこなかったんです。その方が世界は正しいんです。僕はそう思うんです。

それが24チャンネルになったらあっちにも声をつけろこっちにも声をつけろ、それを全体にばらまくって結果ですね。情報力は増えてるけど、表現のポイントはものすごくぼんやりしたものになっているんだと思います。それで思い切ってこれは美術館の短編作品をいくつかやっていくうちに、これでいけるんじゃないかと思ったんですけど、プロデューサーがまったくためらわずにそれでいこうと言ってくれたのが嬉しかったですね。音響監督もまさに同じ問題意識を共有できていてそれができた。こういうことってめったに起こらないと僕は思います。これもうれしいことでしたが、いろんなポジションの責任者たちが色だとか背景だとか動画のチェックだとか、いろんなセクション、制作デスクも音楽の久石さんも、とても円満な気持ちで終えたんです。こういうことは初めてでした。もっととんがってギスギスした心を残しながら終わったものなんですが、20年ぶり30年ぶりのスタッフも何人も参加してくれて、そういうことも含めて映画を作る体験としては非常にまれないい体験として終われたので、本当に運が良かったと思っています。

――(香港記者)5年前に一度個別インタビューしました。今がずいぶん痩せている気がして。失礼かもしれませんが、監督の今の健康状態はいかがですか?

宮崎監督:今僕は正確に言うと63.2kgです。僕は50年前にアニメーターになったとき57kgでした。それが60kg超えたのは結婚したせいなんですけど、つまり三度飯を食うようになってからです。一時は70kgを超えました。そのころの自分の写真を見ると醜い豚のようだと思って辛いです(笑)。映画を作るために体調を整える必要がありますから、外食をやめました。朝ごはんをしっかり食べて、昼ごはんは家内の作った弁当を持ってきて食べて、夜は帰ってから食べますけど、ご飯は食べないでおかずだけ食べるようにしました。別にきつくないことがわかったんです、それで。そしたらこういう体重になったんです。これはだから女房の協力のおかげなのか陰謀なのかわかりませんけど、これでいいんだと思ってます。

僕は最後57kgになって死ねるといいなと思ってます。スタートの体重になって死ねりゃいいと思ってます(笑)。健康はいろいろ問題があります。ありますけど、とても心配してくださる方々がいて、よってたかって何かやらされますので、しょうがないからそれに従ってやっていこうと思ってますから、なんとかなるんじゃないかと思います。映画一本作るとよれよれになります。どんどん歩くとだいたい体調が整ってくるんですけど、この夏はものすごく暑くて上高地行っても暑かったんですよ。僕は呪われてるとおもったんですけど、まだ歩き方が足りないんです。もうちょっと歩けばもう少し元気になると思います。

●ロバート・ウェストールの作品には考えなければいけないことが充満している
――『熱風』を通じて憲法改正反対を訴えた理由は? また日本のディズニーと称されることについてディズニー出身の星野社長はどう考えますか。

宮崎監督:自分の思っていることを『熱風』から取材を受けて率直にしゃべりました。もう少しちゃんと考えてきちんと喋ればよかったんですけど、別に訂正する気も何もありません。発信し続けるかといわれても僕は文化人じゃありませんので、その範囲にとどめておこうと思います。

星野社長:日本のディズニーという呼ばれ方は別に監督がしているわけでは一切無く、2008年に公の場で同じ質問が外国の特派員からあったときに答えているんですが、「ウォルト・ディズニーさんはプロデューサーであった。自分の場合はプロデューサーがいると。ウォルト・ディズニーは大変優秀な人材に恵まれていた。自分はディズニーではない」と仰っていました。私もディズニーには20年近くいましたし、ディズニーの歴史とか一生懸命勉強する中でぜんぜん違うなと感じています。そういう面では日本のディズニーというほどではないんじゃないかなと。

――『熱風』の動機について。

宮崎監督:鈴木プロデューサーが中日新聞で憲法について語ったんですよ。そしたら鈴木さんのもとにいろいろネットで脅迫が届くようになったと。それを聞いて鈴木さんに冗談でしょうけども、電車に乗るとぶすっとやられるかもしれないというふうな話があって、これで鈴木さんが腹を刺されてるのにこっちが知らん顔してるわけにもいかないから僕も発言しよう、高畑監督もついでに発言してもらって3人いれば的が定まらないだろうと(笑)。それが本当のところです。本当に脅迫した人は捕まったらしいですけど、詳細はわかりません。

――作品の中で「力を尽くして生きろ。持ち時間は10年」という言葉がありますが、監督が振り返って思い当たる10年はどの時点でしょうか。この先10年はどういうふうな10年になってほしいか。

宮崎監督:僕の尊敬している堀田善衛さんという作家が、最晩年にエッセイで旧約聖書の伝道の書というのを「空の空なるかな」と書いてくださったんです。それの中に「汝の手に堪うることは力を尽くしてこれをなせ」という言葉があるんです。非常に優れたわかりやすく、僕は堀田善衛さんが書いてくださると、"頭悪いからお前のためにもう一回書いてあげるから"という感じで描かれてある感じがして、その本はずっと私の手元にあります。10年というのは僕が考えたわけではなくて、絵を描く仕事をやると38歳くらいにだいたい限界がまずきて、そこで死ぬやつが多いから気をつけろと僕は言われた。自分の絵の先生です。それからだいたい10年くらいなんだなと思った。

僕は18歳くらいから絵の修行を始めましたので、そういうことをぼんやり思ってつい10年と言ったんですが、実際に監督になる前にアニメーションというのは世界の秘密を覗き見ることだと。風や人の動きやいろんな表情や眼差し、体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかった途端に自分の選んだ仕事が非常に奥深くてやるに値する仕事だと思った時期があるんですね。そのうちに演出やらなきゃいけないといろんなことが起こってだんだんややこしくなるんですが、その10年はなんとなく思い当たります。そのときは本当に自分は一生懸命やっていたと、まぁ今さらいってもしょうがないんですけど。これからの10年に関してはあっという間に終わるだろうと思ってます。それはあっという間に終わります。だって美術館作ってから10年以上たってるんですよ。ついこないだ作ったのにと思っているのに。だからこれからさらに早いだろうと思うんです。ですからそれが私の考えです。

――奥様に引退をどのような言葉で伝えましたか? 奥様の反応は? また、2013年の今の世の中をどのように見ていますか?

宮崎監督:家内にはこういう引退の話をしたという風に言いました。お弁当は今後もよろしくお願いしますと言って、"フンッ"と言われましたけども(笑)。常日頃からこの歳になってまだ毎日弁当を作ってる人はいないと言われておりますので、まことに申し訳ありませんが、よろしくお願いしますと。外食は向かないように改造されてしまったんです。ずっと前にしょっちゅう行ってたラーメン屋に行ったらあまりのしょっぱさにびっくりして、本当に味が薄いものを食わされるようになったんですね。そんな話はどうでもいいんですけど。

僕が自分の好きなイギリスの児童文学作家でロバート・ウェストールという男がいまして、この人が描いたいくつかの作品の中に本当に自分の考えなければいけないことが充満しているというか。その中でこんなセリフがあるんです。「君はこの世に生きていくには気立てが良すぎる」。少しも褒め言葉じゃないんです。そんな形では生きてはいけないぞといってる言葉なんですけど、それは本当に胸打たれました。つまり僕が発信してるんじゃなくて僕はいっぱいいろんなものを受け取っているんだと思います。多くの読み物とか昔見た映画とか、そういうものから受け取っているので、僕が考案したものではない。繰り返し繰り返しこの世は生きるに値するんだと言い伝え、本当かなと思いつつ死んでいったんじゃないかというふうに、それを僕も受け継いでいるんだと思ってます。

●もう二度とこういうことはないと思いますので
――引退発表の場所とタイミングが「ヴェネツィア映画祭」になった理由は?

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアでコンペ、出品要請、これかなり直前のことだったんです。社内で発表し、引退の公式の発表をするっていうスケジュールは前から決めていたんですけどね、そこに偶然ヴェネツィアのことが入ってきたんですよ。僕と星野のほうで相談しまして、宮さんには外国の友人が多いじゃないですか。そしたらヴェネツィアっていうところで発表すれば、言葉を選ばらなきゃいけないんですけど、一度に発表できるなと、そういう風に考えたんですよ(笑)。もともとね、こうも考えていたんです。まず引退のことを発表してその後記者会見をやる。このほうが混乱が少ないだろうと。当初は東京でやるつもりでした。ただちょうどヴェネツィアが重なったものですから、そこで発表すればいろんな手続きが減らすことができるっていうただそれだけのことでした。

宮崎監督:「ヴェネツィア映画祭」に参加するって正式に鈴木さんの口から聞いたのは今日が初めてです。"えっ"て星野さんが言ってるとか、ああそうなんだってそういう風に答えまして、これはまぁプロデューサーの言う通りにするしかありませんでした。

――富山出身の堀田善衛ですが、集大成になった『風立ちぬ』に堀田善衛から引き継いだようなメッセージのようなものは?

宮崎監督:自分のメッセージを込めようと思って映画って作れないんですね。何かこっちじゃなきゃいけないと思ってそっちに進んでいくっていうのは何か意味があるんだろうけど、自分の意識でつかまえられないんです。つかまえられることに入っていくとたいていろくでもないところにいくんで、自分でよくわからないところに入っていかざるをえないんです。映画って最後にふろしきを閉じなきゃいけませんから。未完で終われるならこんな楽なことはないんですけど。いくら長くても2時間が限度ですから、刻々と残りの秒数も減っていくんですよね。それが実態でして、セリフとして生きねばとかいうことがあったから、多分これは鈴木さんが『ナウシカ』の最後の言葉を引っ張りだしてきてポスターに僕が描いた『風立ちぬ』という言葉よりも大きく(笑)。これは鈴木さんが番張ってるなと思ったんですけど(笑)。僕が生きねばと叫んでいるように思われてますけど、僕は叫んでおりません(笑)。そういうことも含めて宣伝をどういう風にやるか、どういう風に全国に展開していくかは鈴木さんの仕事として死に物狂いでやってますから、僕はそれを全部任せるしかありません。というわけでいつのまにかヴェネツィアに人が行ってるっていう。その前になんとか映画祭にパクさんと二人で出ませんかとか言われて。カンヌ映画祭があるとか言われて勘弁して下さいとかあって。ヴェネツィアにいくかは何も聞かれなかったんですけど。

鈴木プロデューサー:ヴェネツィアに関しては宮さんコメント出してますよ。リド島が大好きって。

宮崎監督:あ……僕はリド島が好きです。カプローニにとっては孫ですけど、その人がたまたま『紅の豚』を見て、自分のおじいさんさんがやっていた社史、飛行機の図面というか、わかりやすく構造図に変えたものが大きな本で、日本に1冊しかないと思いますけど、突然イタリアから送ってきて、いるんならやるぞと。ありがたくいただきますと返事を書きましたけど。それで僕は写真で見た変な飛行機としか思ってなかったものの中の構造を見ることができたんですよ。ちょっと胸を打たれましてね。技術水準はドイツやアメリカに比べるとはるかに原始的なんですけど、構築しようとしたものはローマ人が考えてるようなことをやってると思ったんです。カプローニという設計者はルネッサンスの人だと思うと非常に理解できて、つまり経済的批判がないところで航空会社をやっていくためには相当張ったりもホラも吹かなければならない。その結果作った飛行機が航空史に残っていたりすることがわかって、とても好きになったんです。そういうことも今度の映画の引き金になってますが、たまりたまったものでできているものですから、自分の抱えているテーマで映画を作ろうとあまり思ったことがありません。突然送られてきた本1冊とか、随分前ですよね、いつの間にか材料になっていくということだと思います。

――堀田善衛とはどんな存在ですか?

宮崎監督:『紅の豚』をやる前なんかも世界情勢をどんな風に読むのかわからなくなっているうちに、堀田善衛さんってそういうときにサッと短いエッセイだけど、描いたものが届くんですよ。それを読むと自分がどこかに向かって進んでいるつもりなんだけど、どこへ行っているんだかわからなくなるような時期があるときに見ると、よく堀田善衛さんという人はぶれずに歴史の中に立っていました。見事なものでした。それで自分の位置がわかるということが何度もあったんです。本当に堀田善衛さんが描いた国家はやがてなくなるだろうとかね、そういうことがそのときの自分にはどれほど助けになったかと思うと、大恩人の一人だと今でも思っています。

――初期の頃の作品は2年、3年感覚で発表していたが、今回は5年ということで、年齢によるもの以外に創作の試行錯誤など時間がかかる要因がありましたか?

宮崎監督:1年間隔で作っていたこともあります。最初の『ナウシカ』も、『ラピュタ』も『トトロ』も『魔女の宅急便』も、それまで演出やる前に手に入れていたいろんな材料がたまってまして、出口があったらばっと出て行く状態にあったんです。その後はさぁ何を作るか探さなきゃいけないというそういう時代になったからだんだん時間がかかるようになったんだと思います。あとは最初は『カリオストロの城』は4カ月半で作りました。寝る時間を抑えてでもなんとかもつというギリギリまでやると4カ月半でできたんですが、そのときはスタッフ全体も若くて同時に長編アニメーションをやる機会は障害に一回あるかないかみたいなそういうアニメーターたちのむねがいて、非常に献身的にやったからです。それをずっと要求し続けるのは無理です。歳もとるし、世帯もできるし、私を選ぶのか仕事を選ぶのかみたいなことを言われる人間がどんどん増えてくるっていう。今度の映画で両方選んだ堀越二郎を描きましたけど、これは面当てではありません(笑)。

そういうわけでどうしても時間がかかるようになったんです。同時に自分が一日12時間机に向かっても耐えられた状態ではなくなりましたから。実際机に向かっている時間はもう7時間が限度だと思うんですね。あとは休んでるかおしゃべりしてるか飯を食ってるかね。打ち合わせとか、これをああしろとかこうしろとかは僕にとっては仕事じゃないんですよ。それは余計なことで、机の上に向かって描くことが仕事で、その時間を何時間とれるかっていう。それはね、この年齢になりますともうどうにもならなくなる瞬間が何度もくるっていうね。その結果、何をやるかっていいますと、鉛筆をパッと置いたらそのまま帰っちゃう。片付けて帰るとか、この仕事は今日でケリをつけるっていうのは一切あきらめたんです。やりっぱなしです。放り出したまま帰るということをやって、それでももう限界ギリギリでしたから。これ以上続けるのは無理だと。それを他の人にやらせるべきだということは僕の仕事のやり方を理解できない人のやり方ですから、それは聞いても仕方がないんです。できるならとっくの昔にそうしてますから。5年かかったといいますけど、その間にどういう作品をやるかっていうのは方針を決めてスタッフを決めて、それに向かってシナリオを描くということをやってます。やってますが、『風立ちぬ』は5年かかったんです。『風立ちぬ』は、あとどういう風に生きるかはまさに今の日本の問題で、この前ある青年が訪ねてきて、「映画の最後で丘をカプローニと下っていきますけど、その先に何が待っているかと思うと本当に恐ろしい思いで見ました」というびっくりするような感想だったんですけど、それはこの映画を今日の映画として受け止めてくれた証拠だろうと思ってそれはそれで納得しましたが、そういうところに僕らはいるんだということだけはよくわかったと思います。

宮崎監督:こんなにたくさんの方がみえると思いませんでした。本当に長い間、いろいろお世話になりました。もう二度とこういうことはないと思いますので。ありがとうございました。

以上が会見の質疑応答での全やりとりである。宮崎駿監督が長編アニメから引退することについては残念に思うファンも多いだろう。しかし、宮崎監督はジブリのすべてから手を引いたわけではない。今後はまた別の形でファンを楽しませてくれることに期待しよう。


http://news.mynavi.jp/articles/2013/09/07/miyazaki/index.html
【マイナビニュース より引用】

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なんだか、この1、2年でくりぃむしちゅー色が強いブログになっちまった(^^;

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